インタビュー企画14:下斗米淳

 第14回は、専修大学の下斗米淳先生にインタビューをさせていただきました。今回は下斗米先生が心理学をはじめたきっかけや心理学に対するお考えを伺いました。最後に、若手研究者や、これから心理学をはじめる方へのメッセージをいただきました。

―――先生が心理学をはじめたきっかけはどのようなことだったのでしょうか?

  私は、中学から高校入りたてくらいまで医者になりたかったのです。しかし同時期に、民話や伝承・伝記のようなものもよく読んでいました。土地の言葉がでてきたり、独特な風習やそれに込める土地の人々の意味があったりで、読者にはにわかにわからないような、時代背景もあれば、文化風土もある。それをまたよく伝える、ことばの響きみたいなものにひかれるようになり、大学受験を考える頃には、言語学をやりたいと思うようになっていました。 大学と大学院では言語学やりたいなと思って、進学先を選んでいたら、たまたま、高校の授業でカウンセリングテープを聞かされて、いわゆる意識がない、私たちの言うところの無意識というものが考えられるということに少し驚きをもちました。結局はそれがきっかけとなって、心理学の存在を知った。相当遅かったのではないでしょうか。心理学というものに気づく時期でさえもすでに、大学入学の直前くらいなので。
  今考えてみると、心理学で仕事をしていても、どこかに、その頃の想いや感覚が残っているような気がします。身体のメカニズムだとか、地域の構造だとか、それらの中にシステマッティックな動きがあって、そのようなものの発生で、一見人々が独立してバラバラに動くように見えていても、社会という文脈や枠組みの中で力動的に振る舞わされているというように、人の心理と行動を考えようという指向性が残っているみたいですね。医学や言語学、心理学と興味はうつってきましたが、システマテックな動態の変化に不思議さを感じているところは今現在も一貫しているとも言えます。
 市村さんもお見受けするところでは同じなのではないかと。一日の中でさえ自尊感情が上下変動するのはなぜか、下がれば上げようとし上がりすぎれば平準化しようとする装置を想定されているのではないでしょうか。
 ただ、私はそのような指向で心理学を学んできている時、ふと、どこか医学や言語学などの他の学問分野にかなわないなと思うときもあります。

―――他にはかなわないというのはどのようなことなのでしょうか?

 結局のところ、方法論は限られていて、自然科学的な方法を使いながら、しかし哲学にも似て、そのときに立ち上げようとする人間観、普通それをモデルと呼んでいるわけですけども、これはなかなか証明しづらいものですよね。
 たとえば、認知的不協和理論に代表されるような認知的整合性理論は、グランドセオリーと呼ぶにふさわしい大きな理論なわけですけれども、個々の社会行動を予測・説明しながら、同時に人間観をだしている。人間というのは認知的な生命生物で、それを追求しないではいられない存在であるのだと。しかし本当にそうなのかということは実をいうと、必ずしも説明しきれない。個人の中のシステムも誤作動するわけですし、もちろん社会的文脈の中で個人の原初的なシステムがいくらでも変化させられる。
 そうすると、人の身体のようなハード面に近い事象を扱い、それをメインストリームとしてやっている人には既定のシステムに迫れる確たる道程が用意されていそうですし、一方で社会的文脈そのものの構造をみていこうとすれば、一個人の振る舞いにさほどとらわれる必要もないでしょうから、両方を視野に入れる心理学はどうしてもプロパーな立場と比較するとかなわないのかもしれないとおもってしまうことがあります。
  でも、心理学が不必要だとは全く思ってはいません。説明できるとか人間観が本当かどうかを確かめるということを考えたときに、心理学の立ち位置がみえてくると思っています。両方を上手に色々な知見をまとめて、進んでいくべきなのではないかと思います。

―――他の分野にかなわないということに関連して、私自身は心理学が社会に貢献できるのか、自身の研究がどう生かされるのかということに悩んでしまうことがあるのですが。

 もちろん大前提は、日常に還元できない学問なんてないはずなのです。だから、一人の研究が学問のための学問をやっているわけではない以上、ご自分のデータを日常に還元したときに、どういったことがおきるのか、どんな風に役立つのかといったことを常に意識して、データをとる。これは、やっぱりいつでも考えていることです。たとえ、それが全ての答えだというデータをだせなくても、やがては本丸に迫れる、ある部分はまた近づいているという手ごたえをどなたも、お持ちのはずですし、それを意識してやっていかれることが必要なのではないかと。
  あとは、実際には言葉を選ばなければ売り方の問題。心理学は、まだまだカウンセリングとか、犯罪行動と心理テストとか、一般にはそのようなイメージをもたれていますよね。ただ、人間が心理学の研究対象ですから、人間のいるいたるところに心理学的な問題が必ず眠っているはずです。ですから、それを追いかけては常にフィードバックしていくことで、どこにでも心理学が日常に貢献できることを示していけるようになるのではないかと思います。心理学の実学としても意義はさらにましていくことと思います。

 私は、自分の研究テーマを問われれば、人の社会的な環境における適応の問題と答えますが、具体的には2つ柱があげられます。1つは、対人関係の親密化や集団構造についての力動の問題、もう1つは、その当事者のselfの問題。たぶん、それに関わって、パーソナリティとのコラボレーションが出来る道があると思うのですけれど。なぜ、パーソナリティではなくselfなのかというと、例えばフロイトのように、古典的なパーソナリティ論はいずれも力動的なプロセスを考えていますよね。そうすると、スタティックに、なんとかテストを使ってこの人は何点です、という記述するだけでは、パーソナリティの一端は扱い得ても力動そのものを語ったことにはならないわけですよね。さきほどの話のとおり、とにかく、システマティックに、変化を遂げていく。 私にとって1番それにちかいイメージなのがselfなのですね。パーソナリティとselfの関係には、いろいろな議論があると思うのですけれども、パーソナリティ論としてでてくるのは必ず決まって自己論だったりするわけで、人間を生成し、人間を防衛し、人間を行為者として他者や集団を操作する、社会的文脈との相互の既定性を帯びて捉えられるものが、おそらくselfなのだと思います。
 先程、対人関係の力動の話をしましたけど、これはただ単に変化したというのではなくて、自ら変ろうとする力、変容を生み出していくプロセスと、それに応じて、同時にその入れ子のような格好でサブシステムの個人があり、その個人はまた力動によって変化するということなのだと考えています。実をいうとそれぞれが別個に変化しているわけではなくて、それらが共変動のような関係で変化していく。
  ある精神的な状態に落着いたなんていうのは、実をいうと、また次の変化をおこすきっかけとなっており、両方のダイナミックスがそもそも結託をしたり、守ろうとしたりするようなプロセスに何とかこうせまりたい。私の学位論文もそういったふるまいだったのです。
  パーソナリティを研究されている方々に対しては、私は素人で何もお話しすることができないのですが、このような立場からであれば、何かお役に立てる情報を提供させていただけるのかなと思っています。
 
―――なるほど。変化を扱うということは、1つの答えが決まっているわけではなく、常に色々な可能性があるんですよね。

 そうですね。パーソナリティの面白いところは、どこまでいっても仮説の世界なのですよね。ということは、どのように仮説づけて、こんな現象はよく説明できる、予測できるっていうようなことが必要になるというわけですよね。

―――最後に、若手研究者へのメッセージをお願いします。

 心というのは、いわずもがなで手にとって確かめられるものではありませんので、どのような色や形を想像しても基本的には間違いだとは言い切れないものですから。
 広くパーソナリティに代表されるように、仮説から概念を構成されるものですよね。でも何故そのように概念を仮説づけてまで、その心を扱うのかというのは、究極的には人間構造を明らかにしたいとか、不適応を直したいとか、各研究者の心に抱かれているところの問題意識によるのではないでしょうか。ですから、研究をなさるときに、そういう方に申し上げるとすれば、ご自身の問題意識、特に日常との接点との結びつきを意識し、正直にいていただければいいのではないかと思います。
         
―――なんだか、私自身、背中をおしえていただいたような気がします。ありがとうございます。私よりも、もっと前の世代、中学生・高校生の年代へも、メッセージをいただけますか?

 やっぱり人間が好きであるという方に、やっていただくのが一番だと思うのです。ただ、ご自分の好き嫌いとか価値観にだけ依ってたって、それを持ち込むことの危険性を了解していただくことが必要かなという気がします。
 ずいぶん昔に、見学というかたちで、バスを借りきって、自閉症の子たちとキャンプに行くという行事があって。自閉症の子たちなので、人の感情をうまく読み取れなくて、自分の感情をコントロールできないわけですから、人が怖いわけですよ。バスに乗り込みたくない。そういうときに、あるスタッフが子どもを無理やり乗せたら、その子は傘を広げて、その中にはいったのです。ものすごく殻をつくったわけですね。みんなと仲良く話をすることが必要だと思われたのだと想像しますが、そのスタッフさんは、傘をひっぱがしてしまい、その子がとてもパニックになってしまったのです。
 よくないからひっぱがすという選択肢はもちろんありましたけど、一方では、傘を広げることによって、狭い空間の中にいても、みんなと一緒にいられるのだって、考えてあげること。つまり、「〜するべき」という風に考えると、時には間違ってしまうこともあるということです。
 何かトップダウンに与えられた理屈で、理想の人間像とご自分がだけがひょっとすると思っているだけかも知れないものを、振りかざして、それをやみくもに体現したりする研究者にはなってほしくないですね。それは、人としてもいえるのではないかと思います。中学・高校生の時期は身体も心もとてもよく動きます。まぶしくらいにキラキラしています。そのような敏感で多感な時期だからこそ、好き・嫌いとすぐ反応せずに、多様な視点を取り入れて自己考察を深めて頂きたいと思います。
         
―――お忙しい中、お時間をいただき、ありがとうございました。
         
 
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