インタビュー企画21:菅原健介

 第21回は聖心女子大学の菅原健介先生にインタビューをさせていただきました。インタビューでは,先生が心理学に興味を持ったきっかけ,先生の研究テーマの魅力,研究者になったきっかけと研究者になって良かった点,若手研究者へのメッセージなどをお聞きしました。

――はじめに,「先生が心理学に興味を持たれたきっかけや時期」を教えて頂きたいと思います。

 心理学に興味を持ったのは,高校3年生の夏だったと思います。受験のために世界史が必要だったのですが,さぼっていて何もしていませんでした。とりあえず,世界史の全集でも読んでみようかと思って1巻目の「人類の曙」を図書館で借りてきたわけですが,その中にサルの社会の話が延々と書かれていていました。日本のサル学の草分けの一人,伊谷純一郎氏が執筆していたように記憶していますが,それにはまってしまったわけです。順位制の話やマウンティング,あるいはメスが有力なオスの力を頼ってステータスを高める依存順位といった話は,まったく目新しいものでした。それをきっかけに,受験勉強はひとまずおいて,サル学の本ばかりを読み漁っていました。
 今にして思えば,ニホンザルの社会の中に一定の対猿関係の法則性があり,それをもとに集団が機能している様子に興味を持ったのだと思います。そして,それは一見複雑に見える人間の対人関係にも共通する面が多いのではないかという気づきですね。まあ,比較的単純なサルの社会を通して,政治や法律といった枠組み以外にも人間社会を規定している暗黙の法則があるのだということに思いが至ったということでしょうか。そうした人と人との関係を規定するルールを解き明かしていきたいと思ったわけです。
 私は文系人間だったので,理系の動物学に進むことは受験科目的に無理で,では,大学でそれができるのはどの学問かと考えていったら「心理学」に行きついたというわけです。

――先生は,心理学の中でも羞恥心をテーマにご研究をされていますが,「そのテーマで研究を始めたきっかけ」や「そのテーマの魅力」などを教えて下さい。

 心理学には動物行動学的な関心から入ったわけですが,逆に,だからこそ人間の特殊性や複雑性というものも改めて客観的に考えるようになりました。日常的な光景なのですが,改めて考えると不思議だったのが,人前に出たときの人々の豹変ぶりです。自宅ではひどい恰好でくつろいでいます,出かける前には鏡のまえで身支度をして,服装や髪型や女性の場合にはばっちり化粧をして出かけます。家族に腹を立てていた母親が,かかってきた電話に出るなり,声が高くにこやかな表情になります。告白しようと心に決めて彼女を呼び出しても,顔を見るなり怖気づいてしまいます。
 こうした私と公の区別の明確さが人間ならではの特徴であり,それが人間のこの複雑な社会の根幹にあるような気がしていました。そして,こうした豹変の背景として,私と公の場面では人の心に何らかのモード変換が起きるのではないか。いわば,パブリックモードとプライベートモードとでもいうべき2つの心を人間は使い分けて,社会の中で必死に適応しようとしているのではないか,といったようなことを考えていました。そして,心理学の研究の多くが個人を対象としている限り,パブリックモード下での心の働きは分からないのではないか,ここに新たな研究テーマがあるかもしれないなどと勝手に妄想していましたが,この発想が私の研究の原点になっているように思います。
 そして,卒論を書く段階になって,このパブリックモードに対応する心の理論として利用できそうだったのが,当時流行っていた自己意識(self-awareness)理論でした。他者の視線を感じると自己意識が高まるといった内容で,自己への注意(self-focus attention)の高まりという概念として,パブリックモードをとらえることができるのではないかと考えた次第です。ちなみに,この理論をみつけたきっかけも偶然で,本当は他の論文の方に興味があってコピーをしたのですが,その最後に,自己意識の論文の最初のページも一緒にコピーされていて目に留まったというわけです。なんか,いきあたりばったりの人生です。
 当初は人前に出た際の人間の心の状態,つまり,パブリックモードですが,これをself-awarenessという概念に置き換えてしばらく研究をしていました。しかし,もともとのself-awarenessの概念と若干の齟齬があったり,また,よくある展開ですが,理論自体もその後,様々な研究者がいろんなことを言いだしたりしてカオスな世界になっていきました。よく考えてみると,個人的には,パブリックモードにおいて心の中でどのような情報処理が展開するのかといったメカニズム論にはあまり興味がないことに気づき,むしろ,パブリックモードがどう対人適応にとって役立ってるのかという機能論の方に目が向くようになっていきました。CBTなどの臨床技法の研究を行うのであれば,メカニズムは重要なのでしょうが,やはり,私は心理学への入り口になったエソロジーの発想がベースになってるのだと思います。
 というわけで,ようやく,現在の羞恥心の研究に行きつくわけですが,私としては,羞恥心をパブリックモードにおける自己への警告システムとしてとらえています。「恥ずかしい」という感情に導かれ,個人は自己の行動を制御します。つまり,羞恥心は人が他者と対峙する際に,自分の社会的イメージを守ってくれる心の機能で,パブリックモードの機能の重要な側面と言えるわけです。
 その羞恥心が具体的にどのような場面でどういった役割を果たしているのか,日常生活に立ち返って考えていくという仕事をしてきました。当初は,「恥ずかしい」事例を集めてみれば,その共通項がおのずと見えてきて論文の1本くらいは書けるだろうと思って始めた研究したが,恥ずかしい場面は考えていた以上に多様でした。
 「褒められた時にも恥ずかしいと感じる」「他人の失態や愚かしい行為を見るだけでも恥ずかしいと感じる」のはいったいなぜか?自己への警告サインというとらえ方自体が間違っているのか?など,様々な疑問が湧いてきて,これは深いテーマだと感じるようになりました。多くの研究者や著作者,旧約聖書までが「羞恥」を人間独特の感情ととらえています。それはおそらく,人間が社会に依存して生き,複雑な相互作用の中で自己の評価を維持しなければいけない環境の中で必要とされた心の働きだからだと考えています。BaumeisterやLearyの言う「socio-meter」ですね。それゆえ,この羞恥心という心の働きを考えていくと,人と社会との関わり,適応のための営みが見えてくるのではないかと考えています。
 上で挙げたもの以外にも,羞恥心に関する疑問は多々あります。「恥ずかしいとわざと変な顔をするのはなぜか?」「人前で裸になるのはなぜ恥ずかしいのか?」などです。一見ばかばかしい問いですが,前者の研究からは,自己イメージが揺らいだとき,それへの対処ツールとして,行く通りかの恥の表情が用意されていて,TPOに応じて使い分けられていることも分かってきています。また,後者は「性的刺激の自己管理」という視点から,”脱衣”という行為の持つ文化的メッセージについて考えていて,これがワコールとの共同研究で,露出系ファッションや見せる下着に関しての研究にもつながっています。
 それから10年くらい前から騒がれていますが,公共場面での恥ずかしげもない行為についてもいろいろデータをとって,準拠集団という視点から羞恥の働きについても考えています。要するに,極論すれば,人は自分の生存にとって利益になる集団の規範に対して反応せず,その集団の範囲をどの程度広く認知しているかによって恥ずかしさの基準も変わってくるという話です。これは非行の問題などにも話が及んでいます。
 というわけで,論文1本くらいだろうと思っていた世界が,意外に展開していって自分でも何をしているのか,わからないくらいに拡散しつつあります。まあ,それだけ羞恥は人間の行動全般に広くかかわる心の機能だということなのかもしれません。
 あと,これはパーソナリティ心理学のインタビューなので,個人差についてもちょっとだけ。羞恥心とはいわば,適応のための心のツールです。上記の公共場面の例もそうですが,その使い方によって大きな個人差,パーソナリティが生じます。その使い方に大きく影響するのが,対人適応における基本戦略です。かねてから,「肯定的評価を獲得する」ことと「否定的評価を避ける」ことを区別し,それらをどういうさじ加減で重視するかによって対人行動のパタンが大きく違うことを示してきました。いわば,自己呈示におけるアクセルとブレーキですね。これが賞賛獲得欲求と拒否回避欲求で,大きな個人差があります。羞恥心はこのうち,拒否回避の目標を達成するための重要なツールとして位置付けています。また,こうした拒否回避に偏った戦略に付随して,シャイネスや社会不安障害,コミュニケーション懸念などにつながっているとふんでいます。では,「肯定的評価を獲得する」側の心のツールは何なのでしょうか?こちら側はほとんど研究していませんが,いわゆる自己顕示や自己愛,仮想的有能感などの話とかなりリンクしてくるものと思っています。人の適応にとって必要な働きですが,アクセル機能だけあってしばしば「暴走」系の問題とつながるように思っています。摂食障害やソーシャルメディアでの過剰露出などとの関係も指摘されています。

――それでは,少し話を変えて,「研究者になったきっかけ」について教えて頂きたいと思います。

 当初は研究者という職業について漠然としたイメージしかなく,周囲にもそうした人がいなかったので,大学を出たら教員になろうと考えていました。しかし,大学に入って勉強し,研究者である教授陣の様子を見ているうちに,研究の道に進むことも現実の選択肢として考えるようになったということかと思います。私のいた大学にはその当時大学院はなく,その気になれば学部生でも実験室などを占有し,好きなことをやらせてもらえる環境がありました。授業での実験実習だけでなく,ラットの学習実験や睡眠脳波の実験,あるいは対人行動の観察など,3年生以降は大学に入り浸っていて,昼は実験やデータ分析,夜は研究室で飲み会といった院生のような活動をしていました。その延長線上に研究者への道があったということで,今考えると,いろいろな設備を学生に自由に使わせてくれた教員の方々の度量と勇気にひたすら感謝です。

――先ほどの質問に関連して,「研究者になって良かった点」について教えて下さい。

 まず,好きな研究をやって飯が食えること,収入が得られるということでしょうか。自分の研究がすぐ誰かの役に立つというわけでもないのですが,研究者という肩書を持ち,大学に職を得ることで,堂々と自分の興味関心を追求できる。本当にラッキーな立場だと思います。
 もう一つ,これはもっと大切なことだと思いますが,研究を通じて多くの人と関われるということです。30歳代の終わりころ,「人はなぜ恥ずかしがるのか」という単著を出版する機会に恵まれたのですが,最後に,「羞恥クラブを作ろう」というアピールで結ぶことにしました。そもそも研究者という人種自体の数はそう多くありません。ましてや,心理学,恥とキーワードを足していくと自分は本当に孤独でオタクであることを実感します。本の中でも書いたのですが,新幹線に乗っていいて,隣の人がたまたま「恥」に関する論文を読んでいるなどということはまずありません。ですから,この本を読んで興味を持ってくれた人は,これをきっかけに知り合いになりましょうというメッセージを出したわけです。そうしましたら,メールや学会などで声をかけてくれる学生や院生がいて,やがて研究会に発展していきました。中には関西からわざわざ会いに来てくれた大学生もいました。そこで出会った人たちは今やいろいろな大学の先生になって大活躍していますが,今でもこの研究会は続いています。”指導する―される”といった関係ではなく,同じテーマについて一緒に何かを考え,創造してきたという関係は私にとって本当に宝物だと思っています。見方を変えれば,一種のオタクのオフ会ですが....。
 この他,他分野の研究者や企業の人たちなどと研究をきっかけに知り合い,自分の今まで知らなかった世界を体験して刺激を得,興味が膨らんで研究につながっていくという日常もあります。これは本当にわくわくします。特に,私たちは調査という手法によって新たなデータを収集することができるので,私が単に専門家という立場から上から目線で語るのではなく,いろいろな立場の人たちと同じアウトプットをながめながら,様々な現象の背景を読み解いていくプロセスは,知的好奇心を満たしてくれる至福の時でもあります。

――最後に「若手研究者へのメッセージ」をお願いいたします。

 一言で言えば,「自分のテーマを長く,しつこく追求してください」でしょうか。まさに,継続は力なりということですが,逆に言えば,「長くかかわれるテーマを見つけてください」ということにもなります。ただ,生臭い話ですが,昨今の就職状況を考えると,一つのことだけしかできないと思われることはやはり不利です。人格心理だけでなく,社会心理や臨床心理に関連する業績も欲しいところですし,学際的な学科に就職するためには,産業や福祉や行政など,現実社会とのつながりも期待されます。
 そんなことで,研究を進めていくと,いろいろなところに目が向きます。あちらこちら手を出して収集がつかなくなることもありますが,ただ,結局は,自分のテーマの周辺をぐるぐる回っていることが多いように感じます。自分の研究者としてのアイデンティティーを見失ったときに,そこに帰れば自分を思い出せる,そんな研究の原点になるテーマがあると心強いと思います。
 「人間って面白い」というゾクゾク感を忘れずに,みんなで一緒に心理学を楽しみましょう。


 今回のインタビューは,メールにて行わせて頂きました。上記のようにたくさんのお話をうかがうことができましたが,なかでも「若手研究者へのメッセージ」は深く感銘を受けました。自分の研究を再度見つめ直し,これからの研究者としてのあり方についても深く考えてみようと思いました。お忙しいなか,丁寧にご回答頂いた菅原先生に心より感謝いたします。どうもありがとうございました。

interview21.jpg
 
Homeへ戻る 前のページへ戻る
Copyright 日本パーソナリティ心理学会