第5回大会ラウンドテーブルの報告(1)

「人間はなぜ宗教に痺れるのか」


浮谷 秀一(富士短期大学)

・企画者 司会者 浮谷秀一(富士短期大学)  
・話 題 提 供 者 大村政男(日本大学)    
         宮川充司(椙山女学園大学) 
         越川房子(早稲田大学)   
         安藤典明(フリーエディター)
・指 定 討 論 者 青柳 肇(早稲田大学)   
 

大村:

人間を悩ます3つのRがある。Race,Region,Religionである。人間は超人的な聖なるものへの接近と心酔によって安心立命の境地を獲得しようとする。この安心立命の欲求をだれが充たしてくれるのか。ある人は次のように述懐している。
 臨床心理学者は,箱庭遊びを持ち出したり,「アア」とか「ウン」ばかりいっていて,ワラにもすがる気持ちは裏切られてしまいました。そういったとき,たまたまある宗教の信者に会いました。感銘的な出会いでした。それを契機に一気に“安心立命”の境地にのめり込んでいったのです。「だれかにじっくり話を聴いてもらいたかった」という願望は急速に充たされていったのです−と。 このような人にはどうもある特徴があるように思う。すなわち,「まじめというよりは頭が硬い人・反抗期が目立たない温和な“よい子”・耐性が弱く心的衝撃に崩れやすい人・主体性の脆弱な人・完全癖のある人・自己追求にすごく熱心な人」なのである。神経症的人格というタームでまとめることができよう。

 

宮川:

「宗教」は国民性や民族性を理解するきわめて重要なキーワードである。しかし,それは現代の日本人の心性を理解するためのキーワードになりうるであろうか。日本人の宗教観は時代や社会的様相によって変動し,日本固有の神道といえどもその実態がはっきりしなくなっている。統計数理研究所の資料『日本人の国民性調査(1953〜88年)』などを通覧すると,加齢に伴って信仰心は増強されていくが,素朴な宗教的感情の亢進や迷信を気にする傾向も強くなっている。伝統的な宗教対する信仰は薄らぎがちで,それに代わって土俗的とでもいえるような素朴な信仰心が盛り上がっている。そこに新・新興宗教が滲入してくる隙間ができるのではなかろうか。

 

越川:

宗教は人間をダメにしてしまう危険性をはらんでいるけれども,それに痺れてしまう人がいるのはなんらかの効果があるからである。ターミナルケアに関連していえば,宗教は死に関する情報と死に対するマニュアルを持っているのである。このことは大きなメリットになっている。宗教は“死後の世界”のような未知のものについての対策を示し,不安をやわらげる効果がある。なお,宗教的アプローチの方法と臨床心理学のセラピィの技法は酷似している。例えば,自己教示法と経文を唱え続けることとは非常に類似しているのである。“教祖”という存在とは無関係に,一定の行動を反復すれば同じような心的変化が現れてくることは実証されている。これでヨガで救われたというような思い込みを払拭できると思う。改めて臨床心理学における技法の役割を認識すべきではなかろうか。

 

安藤:

現代は「信じるものが“見えない”時代」だということができる。ライフサイクルを通してその“信じるもの”を展望してみよう。大きな問題は家庭環境の排斥とユートピアの探求である。親や教師に対する反抗は,青年をしばしば信仰の世界に導き入れてしまう。しかし,絶対的なもの,あるいは信じるものへの帰依は思考停止への近道になってしまうことも事実である。「考えることを考える」ために信仰生活に入ったのに,動きがとれなくなってしまうのである。

このような4人の話題提供に対して青柳から

おおむね次のようなコメントがあった。
 (1)入信経過になにか類型(タイプ・パターンなど)があるのか。
 (2)宗教団体に所属することによって個が失われるのではないか。
 (3)“死の不安”を克服するために宗教を信じて一生を過ごすことになってしまうのではないか。
 (4)信じる人と宗教はどう結びついているのか。

 大会最終日の夕刻だったのでフロワーは少人数であったが『教育新聞』の取材もあって非常に活発な討論になった。10月14日(月)の前記新聞には「頭が硬い人が惹かれる・土着の信仰は根強い・終末医学には有効性」という見出しでラウンドテーブルの全容がくわしく紹介されている。

 なお,木村登紀子氏(聖路加看護大学)も話題提供者として参加予定であったが大学の公用で出席できなくなってしまったのは残念であった。


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