心理学と幸せ


藤永 保(お茶の水女子大学名誉教授)

 
 新聞の書評欄を読んでいたら、たまたま、あるタレント夫妻の離婚話を綴った妻の手記をとりあげているのが、目に止まった。この類の本らしく、ベストセラーになり、広く読まれているらしい。
 私は、題名すら知らなかったので、全くのまた聞きにすぎないのだが、著者は、自分たち夫婦の結婚生活について思い悩み、あれこれ心理学書を読み漁ったのだそうである。その結果、ついに、夫婦の理想状態を作ろうと努力したあげく、自分たちが実際は、「共依存」の状態に陥っていることを発見し、離婚に踏み切る決心をしたのだという。気になるのは、この欄の担当精神医学者が、こんな難しげな表現を使う必要があるのか、嫌いになったから別れたくらいでよさそうなものと評した末、心理学は、果たして幸福をもたらす学問なのか、疑問を投げて結んでいた点である。
 たしかに、共依存は、学問めかした言い訳としか響かない。アメリカ文化の圧倒的影響下にある日本の心理学では、「依存」は、マイナス価値づけの強い用語になっていることも忘れてはなるまい。かつて、フロムは、人の性格特性は、「社会性が高い、知己が多い、八方美人」のように、プラス、中立、マイナスのどのようにも表現できることを指摘した。共依存も、もたれ合いといいかえれば悪、信じ合いと呼べば善となろう。変わったのは関係そのものではなく、その価値づけにすぎなかったのかもしれない。これらは、現代の性格心理学にとっても、見過ごすことのできない問題点を提供している。
 しかし、私にとって、より気になるのは、心理学は人の幸せをもたらしうる理論なのかという疑問である。臨床心理学は、空前の追い風を受けて、本家の精神医学を凌ぐ勢いをみせている。旧厚生省所管の心理技術者国資格化の論議にあたり、臨床心理士会は、心理療法やカウンセリングは医行為ではないと主張して、医学界との摩擦を引き起こしていると聞く。追い風も、過ぎては、非常識や横車という反感を呼んでいると想像するのは、うがちすぎではないだろう。つまり、世間の目からは、心理学は、今や「癒しの科学」の地位を一手に収めているようにみえるのだ。
 かつて、メスメルがエクソシストの手からヒステリー治療法を奪いとったとき、精神医学も一時癒しの科学だったのではないだろうか。しかし、それが動物磁気という鬼子を生みだし、やがてフロイトやユングに連なる臨床心理学への路を拓いたとき、精神医学はそこから絶縁して正統科学の領野へと復帰したのだろう。両者の離反は、このときに根ざす。
 問題は、しかし、癒しの科学という両義的な路はあるのか――その外延にはカルト教団の姿がほの見える――という疑問にあろう。かといって、それを切り捨てれば、第三の癒しの科学を生みだすだけかもしれない。この難しいディレンマが、現代心理学に課せられていることを痛切に自覚する必要があるのではなかろうか。


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