ミニ特集 現場からみたパーソナリティT
マスメディアで表現される個人の性格
安藤典明(フリーエディター)

 「温厚な方で、誰からも慕われて…」「まさか、几帳面なあの人が」「短気で、カッとなると何をするか…」、これらは、事件・事故の報道において、当事者のプロフィールをマスメディアが紹介する際によくみかける「性格」(らしきもの)表現の一部である。さすがにマスメディアでは、「人格者」や「心根やさしい」などの空空漠漠たる表現はみかけなくなったが、ローカルなメディア(エリアの狭い、○○ケーブルテレビや○○市民新聞など)では、これらは故人を紹介するときなどに用いられる、まだ現役の表現である。現役ということは、ローカルコミュニケーションの世界(文化)では、十分機能している言葉なのである。
これらの「性格」表現は、メディアが当事者を知る由もないので、周囲の人や関係者に取材したうえで、「○○によれば」という間接話法によって記述される。取材がどのように行われようが(パターン化された取材が大半だが、なかには個性的な取材もある)、編集過程を経て情報が加工されていくうちに、「性格」情報は単純化されたものになりがちである。
事件・事故の報道にふれて、なぜ当事者の「性格」情報が必要なのか、事実関係だけで十分ではないか、と思うことはしばしばである。もちろん原因究明に個人の「パーソナリティ」要因が不可欠なこともある。だが、ここでこだわりたいのは、マスメディアによって表現された「性格」(らしきもの)が、事件・事故の誘因と結びつけられてしまうことがあるということだ。それは、「やっぱり、あんな性格だからねー」などというラベル貼り的なタイポロジーが蔓延するきっかけになる。また、メディアが考える枠組みから逸脱している個性は、専門家の指摘した「○○障害」や「○○症候群」などの概念にしがみついて、異質性を強調するだけで終わってしまうこともある。
 どうやら、情報の送り手と受け手の関係には、タイプで示さないと事態が理解できないだろうという送り手の傲慢と、タイプで示してもらわないと事態が理解できないという受け手の怠慢、という側面がありそうだ。それは、「モデル」を求めて慣例主義やマニュアル主義に走ることに似ている。
 この点は、パーソナリティ研究における「類型論」論議と通じるものがありそうだ。とかく批判されがちな類型論であるが、その批判的視点でこのような社会事象をとらえる研究も進んでほしい。
 マスメディアに対して批判めいたことを述べてきたが、メディア(マスに限らず)には、解説や論説のコーナーで、事件・事故の背景にある個人の「性格」、というよりまさに「個人差」を中心に問題を掘り下げ分析する、良質な情報提供を心がける側面があることを付け加えておこう。
最後に気になっていることを一言。昨今の事件・事故、あるいは自然災害ですら、「一体、なぜ」と声をあげたくなるような複雑な構造をもつものが多い。だからこそ、送り手には、「これまでに類を見ない○○」や「記録的な○○」また「最古、最大、最悪、最○…」と形容すること(最近辟易するほどこのような形容が多い!)にかまけて、画一的報道に陥るのではなく、多面的に考えられる情報提供のあり方を模索してほしいし、受け手には、提供された情報を読み解くためのメディアリテラシーを身につけてほしい。


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