ミニ特集「エピソード*個人差」


個人差ってなんだ? 個人差研究ってなんだ?


尾見康博(山梨大学教育人間科学部)

 
 「性差はないんですか?」「世代によって違いそうですよね?」「所属大学以外のサンプルからはデータをとってないんですか?」
 学会や研究会での研究発表に対してありがちな質問だ。これらはいわば、デモグラフィック特性によって結論が変わる可能性について問うている。「あなたが対象とした人たち以外にはこの結論があてはまらない(あてはまるとは限らない)のではないでしょうか」という問いかけであり、知見の一般化に対する疑義である。
 デモグラフィック特性に限らない。
 「孤独感を独立変数としてとってみたらどうですか?」「セルフエスティームを要因に加えるときれいな結果がでるかもしれませんね」など、心理的特性(性格特性)が基準として持ち出される場合もある。
 でもって、これらをひとくくりにした質問には、「個人差があるように思うのですが」「個人差を考える必要はないでしょうか」といったものがある。
 どの質問に対しても、「いや、その必要はありません」「違いはありません」と明確に反論できることはかなり少ない(そういうデータがあるときは別としても)。そして、これらの質問が非常に的確な指摘であることも多いけれども、「そりゃ個人差はあるだろうけど、言い出したらきりがない」という場合も少なくない。つまり、(あたりまえの話だけど)どういう側面で切り取るかによってあまりに多種多様の「個人差」があり、「個人差」のない人間現象などないと言ってもいいのだ。だから、それぞれの研究がどういう個人差概念を引っ張り込んでくるかに、研究のセンスが反映される。
 ところで、一般に(性格)心理学で個人差を検討するとき、その結論は、「(個人差変数の)Xが高い傾向にある人ほど、Yが高い傾向がある」とか「(個人差変数の)Aの高い群は低い群よりも、Bが高い傾向にある」といったものが典型的だろう。これはこれで一般的知見として意味のあるものであるのだろうが、何となくものたりなさを感じることはないだろうか。
 具体例を挙げてみよう。私が大学院生時代、某先輩が研究会で発表していたときの話である。よく覚えていないので正確とはいえないが、発表した研究の結論の一つにこういうものがあった。
 <子どものときの親の離別体験が、成人後のうつ傾向を高める>
 原因となる変数が、“親の離別体験”という本人にはコントロールできないものだけに、この一般的知見は何とも重苦しいものだ。
 それを聞いて私が発言した内容は、「親の離別体験のある人のなかで、うつ傾向の低い人を抽出して、どうしてその人たちに一般的知見が適合しないのか、同時に得た他の変数を見るなりして検討してはいかがでしょうか」というものであった。
 私はしばらくこの発言について忘れていたのが、発表した先輩にあるとき思い起こしていただいた。われながらとってもいいこと言ってるなぁと思った。そして、それからはとくに、自分の研究でも、他者の論文を読むときにも、研究会で発言したような観点を意識するようにしている。つまり、マスデータ(たとえそれが十に満たない少数であっても、平均値を出したり、クロス集計したりすることによって、データ全体の特徴を端的に記述する場合すべてを含む)を用いて一般的知見を得る一方で、一般的知見に適合しない事例にも目を向け、可能であるなら、なぜ適合しなかったのかを探る視点を大事にしたいということだ。とりわけ、上に挙げた例のような場合には強くそう思う。
 冒頭の話に関連づけるなら、個人差というときに、Xの高い群とか、Aが高ければ高い人ほど、といった大まかな集合体なり抽象的存在として考えるだけでなく、個別具体的な、とりわけ一般的知見からはみ出すような個人に注目してはどうかということになる。統計用語でいうところの「外れ値」「極値」といったものに近いだろうか。ともあれ、事例研究ではなくとも、個別事例に注目しながら、応用的な知見を得ることもできるように思うし、けっこういけるのではないかと思ってもいる。ただし、プライバシーを侵害しない、といった倫理的配慮が当然必要ではある。
 「科学的」態度にはひょっとしたら背いているのかもしれないが、私は今後も少しひねくれたこういう姿勢で心理学しようと思っている(論文書かないと……<焦>)。
 心理学界のなかではそうとうな外れ値かもしれないけど。


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