ミニ特集「エピソード*個人差」


「個人差」ということのアポリア


久保田まり(昭和大学医療短期大学)

 
 医療系の教育機関に勤務する関係で、学内の研究発表会や先生がたとの談話を通して、病気のメカニズムや予防法、治療法についてお聴きする機会が平素から多いが、そこには常に、不動の「個人差」が存在している。骨密度、血中カルシウム値、血糖値、尿酸値、ヘモグロビン量、血清アミラーゼ……等々から、薬の効果と副作用、リハビリテーションの効果に至るまで、明確な「目で見える個人差」がある。
 確かに、毎年5月の健康診断の結果として、各検査・測定項目の“マイ・データ”を目の前にすると、(自分の固有性に常に懐疑的な私でさえ)「ワタシの固有性」を心から(身から?)実感してしまう。
 しかし、“ヒト”ではなく“人”としての、一人ひとりの人間存在を考えるとき、事情はかなり違ってくる。「からだ」であれ、「こころ」であれ、個人差を考えるとき、そこには一人ひとりの確固たる固有性が前提となっている。しかし、「こころ」の領域、パーソナリティに関しては、そもそも、真の意味での個人の固有性などあるのだろうか。つまり、その個人特有の、完結した、一なるミクロ・コスモスなど、あるのだろうか。
 個性、独自性、主体性、その人らしさ、アイデンティティ、……あたかも、自己の存在を「統一的な中心をもった、独自の自己完結体」というイメージでとらえる数々の言葉を前に、私は逐一、疑問符をうってしまう。
 むしろ「私」とは、常に既に他者との関係のネット上にあり、他者からの触発によって、その都度の「わたし」が生成・変化していく存在のように思う。「私」とは、乳児期の愛着対象とのインタラクションを始まりとして、家庭、学校、その後の社会生活の中で出会う具体的な他者との関わりや、書物等を通して出会う未だ見ぬ他者との対話を通して、絶えず多くの他者性を吸収し、常に異質性を同化しながら編み上げられつつあるものだと思う。
 もし、その個人の独自性とかユニークネスとかがあるとすれば、それは多分、縦横に織り込まれた「複数の他者性」から奏でられる“ポリフォニーの旋律の特有さ”ではないだろうか。多声的・重層的な時空間を流動する「私」の“波形の輪郭の特有さ”ではないだろうか。
また、上記のような「からだ」に関する個人差でさえも、「母という他者」の肉体の一部であった「我が身」の事実や、遺伝要因などを考えると、身体もまた、この上なく他者性を帯びたものとなる。このように、精神も身体も、複数の他者性によって既に織りなされ、常に織りなされつつある織物のようなものと考えると、「個人差」ということは、私にとってアポリアである。


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