特集*「性格・人格・パーソナリティ」ということば

    人格・性格&パーソナリティ…………………………… 大村政男
    性格とパーソナリティ……………………………………渡邊芳之
    概念を日本語化すること:Personalityの場合…………サトウタツヤ
    「人となり」を考える:“personality”の人間科学 ………菅村玄二
    personalityはpersonである ……………………………川瀬良美
    対人認知の個人差研究とパーソナリティ………………鈴木佳苗
    性格、人格という言葉と私………………………………西川隆蔵
    私のファジーな「性格・人格・パーソナリティ」 …………秋山幹男



人格・性格&パーソナリティ

大村政男(日本大学名誉教授)


 私がG.W.オルポートの“Personality : A Psychological Interpretation (1937)”に出会ったのは、昭和22年ごろだったと思う。それは、日比谷公園の一隅に建てられたシーアイニーCIEの小さな図書館(アメリカ文化センター)の2階の書架にあった。輸送船のなかで読むためのものだろうか、水色のペーパーバックの心理学書もたくさん並んでいた。sour grapes,sweet lemons,identificationなどという面白い語彙をたくさん見出したのもそのころである。
 オルポートの本には現在多くの日本の心理学書に引用されている有名な“personality”の定義が載っていた。この本の邦訳は昭和57年にやっと完成し、新曜社から刊行されているが、書名は『パーソナリティ』で、原書のなかの“character”は「性格」と訳されている。その後、オルポートは“Pattern and Growth in Personality (1961)”を著わしている。その邦訳は昭和43年に誠信書房から刊行されているが、書名は『人格心理学』で、“personality”は最初「パーソナリティ人  格」とルビ付きにしながらもすぐ「パーソナリティ」とカタカナ書きに替わっている。訳書の監修に当たった今田恵は、「人格」という語からくる倫理的・価値的語感と“personality”という語から英語圏の人びとが受ける語感とが同じだ――という意味合いのことを述べている。わからない!
 有斐閣で出している『心理学辞典(1999)』ではどうだろうか。そこでは「パーソナリティ」というアイテムと「人格心理学」というアイテムとを同一人物が執筆している。前者では、「日本語の『人格』は『人格者』という言葉があることからわかるように価値判断的色彩が強いので、学術的にはパーソナリティという表現が好まれる傾向にある」としている。しかし後者では、「人格や性格、つまり『その人らしさ』を研究の対象とした心理学の領域」を人格心理学というと述べている。この辞典では「性格」というアイテムは別な人物が執筆している。そこでは、性格という語が「人格と同じような意味で用いられることもあるが、習慣的には、人格が個人が保っている統一性を強調しているのに対し、性格は他者と違っているという個人差を強調する際によく用いられる。また、人格には価値概念が含まれており、評価された性格が人格であるという見方もある」と結んでいる。ここに登場した2人の心理学者の記述はそれぞれ苦労の所産だと思われるが、学術的にはパーソナリティが好まれるなんてどこで調べたんだろう、それから「習慣的には」と書いているが、「慣習的には」とすべきではないか。おかしい!
 オルポートは、1937年の著書で「characterは評価されたpersonalityであり、personalityは評価を脱きにしたcharacterである」としている。1961年の著述でもこの定義を反復している。ただ、個人の道徳的理想、良心、宗教的信念などもその人の内面的構造を理解するのに重要であるが、それらはすべてpersonalityのなかにあるとしている。彼は、characterをpersonalityのある特殊な領域とは考えていないのである。おもしろい!
 私は、characterはtemperamentの上に彫り込まれたもの(ここに「ビンゴゲーム仮説」が臨界的にはたらきかける)で、personalityは語源どおり状況変貌的な層と考えている。personalityは、F.H.オルポートのいうようにsocial manなのである。どうだろう!
 ボルテールは「私と議論したいなら君はまず用語を定義しなければならない」といったと伝えられている。personality、character、Personlichkeit、Charakter、personeco、karaktero、人格、性格――みんな個人個人で解釈が違っている。私はソフィストは嫌いだがプロタゴラスには魅力を感じている。「人間は万物の尺度なり」は実にすばらしいパラドックスだと思う。
 心理学のこのような混乱時代にW.ミッシェルの状況論が乗り込んできた。“Personality and Assessment(1968)”(邦訳『パーソナリティの理論――状況主義的アプローチ』1992、誠信書房)がそれである。ミッシェルの考え方は、新しもん好きなヤングたちを悦ばせた。状況論の台頭である。年配クラスの人たちはたいてい内的実在論(サトウ・渡邊・尾見一派のいう素朴実在論)である。ロートル老頭児連中は、説明することのできない、ある内的実体が個人の思考や行動のベースをなしていると考えている。Allport vs Mischelの対立になる。
 芭蕉は、俳諧の道はまず「格」に入らなければいけないといっている。「格」というのは基礎であり古典である。最近のヤングたちは、記述統計を超えて推測統計の世界に飛び込み、コンピュータ依存症に罹って不可思議な結論に酔っぱらっている。状況論は新鮮で、しかも「格」に突きつけたあいくち合口的な魅力を持っている。かっこいい。ただ、それだけの魅力しかない。
 最近の大脳生理学や分子生物学の発展には目覚しいものがある。人間を状況の操り人形(それほどでもないが)と考えているような人たちには明日はないかも――と思っている。

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性格とパーソナリティ

渡邊芳之(帯広畜産大学)


 われわれが今ここで問題にしている研究分野、あるいはわれわれの学会の「専門分野」の中心的な問題が、人間の行動にあらわれる、それも個人に独自の、なんらかの意味で一貫した「傾向性」であることには疑問の余地はないだろう。また、この研究分野では、そうした傾向性そのものと、その傾向性を生み出すなんらかのシステムを、少なくとも概念的には区別して考えることが多いようである。一般に前者、つまり行動にあらわれる個人独自の一貫した傾向性そのものを「性格」とか「Character」といった用語であらわし、それを生み出す(あるいはその根底にある)心理的、行動的、あるいは生理的、物理的システムを「パーソナリティ」または「人格」であらわす、と考えるのが妥当だろう。たとえば有名なオルポートの定義などを挙げるまでもなく、「パーソナリティの定義」といわれるもののほとんどは「行動の傾向性」だけではなく、それを生み出すシステムを包含している。そうした意味で、性格とパーソナリティは少なくとも概念的には明確に区別可能な用語である。
 しかし、実際の研究面でこのふたつが明確に区別されて用いられているかというと、そうともいえない。というより、実際にわれわれが研究しているのはほとんどの場合「行動の傾向性」そのものやその個人差の把握、その傾向性と他の心理学的諸要因との関係、その傾向性の発達的変化などであり、一方で、そうした傾向性を生み出すシステムについて直接に論じている、あるいは実証的に検討している研究というのは実に少ない。いわゆる「パーソナリティの一貫性論争」は前世紀後半の「パーソナリティ心理学」を象徴する問題意識であったけれども、そこでも主要な論点は「状況を越えて一貫した行動傾向が存在するか」という、いわば「性格」の性質に関するものであって、その根底にある「パーソナリティ」については、あくまでも理論的な立場の問題として議論されたに過ぎない。われわれの研究分野全体を見渡しても、多くの研究が直接の対象にしているのは「性格」であって、「パーソナリティ」についての分析、とくに実証的な研究はこの分野の主流ではない。その点で、研究分野の名称として性格とパーソナリティをはっきり区別するとか、ましてや性格という用語をパーソナリティに置き換えるとかいった議論は、われわれの研究分野の実態からみると、あまり意味がないというか、むしろ現状とその看板との乖離を生み出す恐れがあるかもしれないし、逆に、性格という用語を使っているからといって概念的にパーソナリティの領域に属する問題を議論できないわけでもないだろう。
 2つの用語を区別したり、入れ替えたりすることに研究上の意味があまりないとすれば、残るのは公共的な意義である。われわれの研究分野を社会に広く知らせ、理解してもらうために、それを性格心理学と呼ぶのとパーソナリティ心理学と呼ぶのと、どちらがよいだろうか、という議論は成立すると思う。しかし、その点でもすくなくとも日本語において、性格とパーソナリティとの間に意味のあるような違いはない。むしろ、われわれの研究分野が対象にしているような現象をあらわす用語としては「性格」の方が圧倒的に使用頻度も知名度も高いし、「パーソナリティ」はそれとは全く違う意味で用いられることも多い。「血液型性格判断」「性格の不一致」などの日常用語はあるが、「パーソナリティ」がその意味で用いられている例がどれだけあるだろうか?
 いずれにしても、われわれの研究分野の名称として「性格」と「パーソナリティ」を使い分ける、あるいは入れ替えるということには研究上の意義は特にないし、公共的な意義においても性格ではなくパーソナリティという言葉を用いる積極的なメリットは存在しないように思える。ものごとは特に変える理由がなければ現状維持というのが原則だろう。

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概念を日本語化すること:Personalityの場合

サトウタツヤ(立命館大学文学部)


 Personalityという概念は何を意味するか? その訳は何か、という問題はPersonalityを研究している心理学者にとって重要な問題である。この問題に対しては様々なアプローチが考えられるが、ここでは心理学史的な観点から考えていくことにしたい。
 ただし私は、現在の問題から遡って歴史を考えていくという思考法をとることが多いので、ここでもそうした思考スタイルをとってみたい。
 1.1992年に日本性格心理学会が設立された。この時の名称は日本「人格」心理学会ではなかった。このことは、1990年代の心理学界において、「人格心理学」よりも「性格心理学」が一般的だったことを示している。
 2.一方、DSM(アメリカ精神医学会の診断と統計の手引き)などに見られるPersonality Disorderという語は人格障害と訳されている。つまり、Personalityを人格と訳している。Personality Disorderという考え方が一般化したのはDSMの第三版以降であるから、それを日本で翻訳したのはその後である。つまり、1980年代中頃において、精神医学においてはPersonalityを人格と訳すことが一般的であると思われており、その後、日本では人格障害という語が用いられるようになったと思われる。これに関して多重人格や二重人格などは決して多重性格・二重性格と表現されない。この点については後でも触れる。
 3.1980年代の日本の心理学界では、Personality psychologyの停滞が起きていた。
 4.では、その前の時期はどのような研究が行われていたのか? 人格心理学という名のもとに、特性論的研究、(ロールシャッハなど)投影法を用いた力動論的理論、などが活発に行われていた。なぜ、この時期は人格心理学だったのか?
 5.第二次世界大戦後、それまでの日本の教師教育には批判がむけられ、アメリカ主導によって「科学的」かつ「民主的」な教育が志向されるようになり、その柱のひとつが教育心理学であった。たとえば、国立大学の教育学部には「教育基礎講座」があり、その中に教育心理学が位置付いていることが多い。教育心理学は教育の基礎だと位置づけられているのである。そして、教育心理学の中には4本柱というのがあり、それは、発達、学習、人格、適応、であった。ここでPersonalityは人格と訳されている。このことと、教育基本法第一条(教育の目的)「教育の目的は、人格の完成をめざし(以下略)……」とは無関係ではないと思われる。
 6.では戦前はどうだったのか? 佐古順一郎『人格観念の成立』(朝文社、1995)によればPersonalityが人格と訳されたのは、早くても明治20年代である。それ以前は「人品」「有心者」「霊知有覚」「品位」「品格」などと訳されていたという(pp.21-23)。人格という語は「和製漢語」であって、漢語ではない。やまとことばでもなかった。Personalityの訳として作られたようである。興味深いことに、この人格という語は「二重人格」のような用法で用いられていた。今でいう解離性同一性障害のことが、明治20年代に日本に紹介されていたのである。それが、大正期に入って、「人格者」「人格の実現」というような用法が行われるようになる。つまり、価値の世界の言葉となったのである。価値が入ると心理学から離れるというのはどうかと思うが、実際にはそういう傾向が強い。実際、この時期には「気質」という語が人格に変わって用いられていたようであり、さらに、性格という語が大正期以降の心理学で用いられるようになったのである。

 以上、Personalityという語の訳について時間を遡る形で考察してみた。生活に密着した概念を日本語に訳すことは、学者に課せられた使命の1つである。現時点において訳語がしっくりしないとすれば、それに変わる訳語を提唱していくべきであろう。カタカナ語で示すので良ければあらゆる概念を全てそうすべきである。もちろん、ストレスのように日常語化したような概念もあるが、Personalityのカタカナ語であるパーソナリティが日常的に使用されているとは思えない。「パーソナリティ」の方が使い心地がよいということがもしあるとすれば、日常における性格関連事象を対象にしているというより、外国語のPersonalityという語を対象にしているからだという可能性はないだろうか。日本のPersonality研究の目がどこを見ているのかが問われている。

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「人となり」を考える:“personality”の人間科学

菅村玄二(Counseling Program, University of North Texas)


 学問というのは、だいたいが輸入品であるため、訳語はつねに問題となりますが、訳語の問題というのは、大きく分けて2つあるように思います。それは、訳語が<不正確な場合>と<正確すぎる場合>です。このたったいま思いついたキャッチーな二分法をヒントに、“personality”の訳語の問題について、ほんの少し考えてみたいと思います。
 まず、“personality”の訳語として、「人格」、あるいは「性格」というのがあります。この訳語が正確かどうかはさておき、私の場合、まず疑問に思ったのは、「なぜ音読みなのか」ということでした。なにも心理学用語にかぎらず、ほとんどの訳語はなぜか音読みです。音読みになると、なんだか学問っぽく聞こえてしまうのも不思議なところです。しかし、音読みにする必要性はどこにあるのでしょうか。たとえば、哲学では、“becoming”は「生成」と訳されたりしますが、要は「なること」であって、原語ではこのような理解のされ方がなされているはずです。専門用語のとっつきにくさについてよく批判されますが、この背景には音読み訳語の弊害がたぶんにあるような気がします。
ほかに、“personality”の邦訳語としては、「パーソナリティ」というのもあります。音読みのつぎに多い訳語が原語のカタカナ表記でしょう。これは、訳し間違えるという危険性はないですが、専門家以外には、何を意味しているかがわかりにくくなるという大きな欠点があります。心理学用語でいうと、“locus of control”を「ローカス・オブ・コントロール」と訳す場合などがこれに当てはまります。この場合、訳語が原語の意味合いに限定され、その域を出ないという弱みもあります。
以上をうえに書いた二分法に無理やり当てはめてみると、「パーソナリティ」というのは、原語に忠実という意味では、<正確すぎる場合>になるかと思います。他方、「性格」と「人格」は、どうでしょうか。そもそも、“personality”というのは、“person”というありきたりの日常語に、状態を表わす接尾語がくっついてできた用語です。辞書的には、“the state of being a person”などとあります。「人であるという状態」というのが、正確な訳になるかと思います。このような語が日本語になかったかというと、そうでもなく、「人となり」という大和言葉がぴったりくる感じがします。「人となり」という言葉は、術語でないため、一般の人にもわかりやすく、また“personality”という語の成り立ちから考えても、的を射た言葉ではないでしょうか。「性格」や「人格」などとカクばった言い方をする必要はありません。なにより、「格」という語は、法則を意味し、状態を意味しないとなると、必ずしも正確な訳とはいえないでしょう。
 私は、心理学を人間科学という枠組みで学んだこともあってか、対象が何であれ、人間そのものまで立ち戻って考える態度を持ちたいと思っています。性格心理学は、心理学の一分科でありながら、その名称に“person−”が入っているというのは示唆深いことです。せっかくだから、これを「性(セイ)−」や「人(ジン)−」、あるいは「パーソ−」などと訳さずに、「人(ひと)−」とそのままのニュアンスで訳せたら、と考えてしまいます。「人格」や、あるいは「人」という字すら入っていない「性格」や「パーソナリティ」という語は、意味を限定化するという機能はありますが、人それ自体に立ち返る視点に欠けます。「人となり」という言葉には、従来の訳語が表わしてきた概念だけでなく、それを凌駕して人間そのものに迫るかのような重みが不思議と感じられます。
けっして不正確なわけでもなく、また正確すぎるわけでもない。そのようなつり合いをもつ言葉として、「人となり」への思いを綴ってみました。

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personalityはpersonである

川瀬良美(淑徳大学)


 characterは性格と訳され、personalityは人格と訳されていることは、パーソナリティ心理学あるいは性格心理学と題する書物の最初に書かれていることである。そしてcharacterはその語源から「刻み込まれた」ものを意味すると解説され、一方、personalityは、ペルソナが語源とする記述が多い。しかし、パーソナリティはオルポートによるpersonからの造語であると知ったとき、「その人らしさ」という意味でのパーソナリティの基本概念がこの言葉とマッチしてスーと体の中に染み込んでいくようであった。personが一人の人間を表すことができる数えられる名詞であることも、個の独自性を意味するパーソナリティの語源として相応しく思えた。
オルポートはパーソナリティは自己意識と表裏一体のものであるとして、その概念は自己意識の「時間的歴史性」「独自性」「力動性」「一貫性」という特性に共通すると述べている。自己意識の本質は、その根底において自己が一貫した独自な存在であろうとし、自己の生のあり方を問い、自己の存在を示す方向性を決定するものであるとする。このような自己意識の力動性の中にパーソナリティの可変性を仮定し、一方、その連続性の中にパーソナリティの不変性を仮定することができる。時間的歴史性を背景とした自己意識がいかに機能して個としての存在を具現するかに、パーソナリティの本質を見いだすことができるということになるのだろう。
 パーソナリティという言葉が、性格と同義とされる説明をみると、オルポートの意図したパーソナリティの用語は、personを意図した言葉であるから、どちらでもよいとはいわないでほしいといつも思うのである。

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対人認知の個人差研究とパーソナリティ

鈴木佳苗(お茶の水女子大学大学院人間文化研究科)


「パーソナリティ」「性格」「人格」―これらの用語をどのように使い分けるのかについては、これまでに様々な見解が見られるように思います。一般的には、「パーソナリティ」「性格」「人格」の用語の関係について、パーソナリティが上位概念で、知能、性格、気質がその下位概念であるという考え方もあれば、「パーソナリティ=性格」、あるいは「パーソナリティ=人格」として用いられることもあるようです。「性格」「人格」は、良い性格、悪い性格、人格者というように、道徳的な意味合いで用いられることもあります。私は、これまで対人認知の個人差に関する研究を行ってきましたが、そこで用いてきた「パーソナリティ」の概念は、こうした意味合いでは用いておらず、対人認知の個人差を説明するための概念としてより広義に捉えています。
Kelly(1955)に端を発した対人認知の個人差に関する研究では、個人はそれぞれ独自の「構成システム(情報を解釈するための固有のシステム)」を持っており、より進展したシステムを持っている人ほど、情報を偏りなく取り込み、偏りのない解釈・判断ができると考えられてきました。つまり、この考え方によれば、「構成システムの個人差=パーソナリティ」と捉えることができます。
構成システムの個人差というのは、構成システムの進展の程度を表しています。より進展したシステムを持っている人は、権威主義傾向・独断主義傾向・偏見が低く、他者視点の取得やあいまいさへの耐性が高いとされています。このため、構成システムは、複数の特性を包括する概念であると考えられています。
こうした構成システムの進展の程度は、RCRT(Role Construct Repertory Test)等によって測定されます。RCRTでは、複数の対象を複数のコンストラクト(「明るい−暗い」「強い−弱い」など)で評定します。RCRTは、回答者側が一見して何を測定しているのか読み取りにくいテストになっているため、主観的な評定に基づく個人差ではなく、より客観的に個人差を捉えられるという特徴があります。また、どのくらい多様な側面で対象を捉えているかという情報処理能力の個人差を捉えられるパフォーマンステストであるということも指摘されています。
このように、構成システムで捉えられる個人差は、複数の特性を包括した概念であり、また、従来の「性格テスト」「人格テスト」では捉えきれない側面を含むものであると考えられます。このため、私は、「性格」「人格」よりも「パーソナリティ」という用語の方が、この個人差の概念に馴染みやすいのではないかと考えています。


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性格、人格という言葉と私

西川隆蔵(帝塚山学院大学人間文化学部)


 私は、日常、犬、猫から人まで、時には機械にまで、なにもかもに性格という言葉を使って、ほめたり、けなしたりしているし、人格という言葉も使うことはたびたびある。ただ、人格という言葉を使うと何か大仰になったりもするが、状況的には、そのような物言いがふさわしいような時に使っているような気もする。ともかく、犬、猫に人格という言葉を使わない以外、性格や人格という言葉の区別などを気にすることはない。しかし、これが、授業や研究上のこととなると、それなりのこだわりが出てきたりする(私の専門分野が人格心理学でもあるので)。
 こだわり発生の源は、やはり性格、人格の語源的意味にあって、私は性格という言葉を、どちらかというと遺伝的で内部固定的な特徴を指し示す特性として、一方人格を「他者」「モノ」、あるいは「自己」との関係性において表出される行動パタ−ン、およびその内部システムのようなものとしてとらえている。ここで、「どちらかというと」とか、「……ようなもの」という曖昧な表現をするのは、私が未だにこれらの言葉を明確に定義しえないからであるが、ともかく、性格は行動パタ−ンを生み出す内部システムの一つの側面ということになり、人格という概念の内包としてとらえることができるし、行動主義理論、社会的学習理論も人格理論として扱えると考えている。
 さらに、もう一つ、こだわりを持つ理由は、私のなかにある個体主義的な人間観と「関係性」を重視した人間観の対立、葛藤である。すなわち、私たちが一個の独立した個体であること、このことは一見して物理的にも何ら疑う余地のないことのように思われるが、これまでの心理学では、このことをまず大前提にしたうえで、心理をその個体内部の事柄としてとらえてきたように思う。行動を理解するにしても、それを基本的にはその内部の心理、性格の現れとみなすのは、当然のこと、常識のようにとらえられてきたのである。もちろん、こうした傾向は心理学特有というわけではなくて、個別科学を越えた近代科学一般の思考法の一つの特徴でもあった。
 このような個体主義的な人間観では、まず個としての人がいて、次いで人と人との間に関係が形成されるものと考える。だから関係などなくても、人は絶対的に存在しているかのようなとらえ方がなされたりもする。しかし、私たちは、他者、外界との関係によって、特別な文脈での関係の中で、不安をおぼえたり、やすらぎを感じたり、時には癒されたりするものなのである。このような気持ちやその変化を経験できることが人間らしさでもあり、個として存在しつつも、関係の中にあって、変化成長していくという関係的存在であるところに、人の本質があるとも言える。そもそも心や心理というものも、人と人との関係、人と「モノ」との関係なくしては、ありえないのかもしれない。
 私には、このような「関係性」の観点から、性格、人格という概念をとらえなおしてみたいという思いがあり、また性格という言葉には、個体主義的なひびきを感じるという「変なこだわり」ができてしまって、使いづらく思うことがある。なにか、まとまりがなく、自己矛盾を露見するような話になってしまい恥ずかしいが、他の方は性格や人格という言葉とどのようにつきあっておられるのか、気になるところである。

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私のファジーな「性格・人格・パーソナリティ」

秋山幹男(広島文教女子大学人間科学部)


 40年前、大学に入学した頃の心理学は、行動の科学を目指しておりました。S→Rまたは、S−O→Rを追究する時代でした。「心」・「こころ」というキーワードは、桧舞台にあがることが出来にくい状況下にあったのです。心理学用語の使い方には、気にし過ぎる位ナーバスになりました。「性格とは何か」「人格・パーソナリティとは?」と聞かれる度に、亀のように首を引っ込め、蟹のように泡をふいたものでした。実験でも、定義は操作的になされ、その条件下で議論されたように思い出します。
その頃の私は、まだ相当に完璧主義的人格者でしたので、意味にこだわったのです。というよりは、その違いがまったく分かっていなかったのでしょう。教授の前で用語の意味する内容を話さねばならなくなった時にうまく述べることが出来ず、自分の勉強不足を恥じ、極度なる自己嫌悪に陥った(これが私の性格?)ものです。自分には大学生としての資質がないのか(これは、人格?)と悩んだものでした。
 20歳代の私は、シロネズミを被験体にして回避反応の消去期の研究に8年の青春をかけました。当時 Eysenck,H.J.が唱え始めていた行動療法の基礎研究でした。自分が立てた未熟な仮説にネズミが合わせてくれなくてストレスを高めるよりは、ネズミの個体差を自明の事として実験を組み上げるほうがよいという方針を立てました。これはうまくいきました! 彼らは様々な行動の変化を見せてくれたのです。本人は超真面目で、「チューソナリティの確立を目指す」とよく口にしたものでした。しかし、そんな実験生活の中で気づいたことは、ネズミは人間の言葉で自分を語れないという当たり前の事実でした。考え続けたのは人間である私だったのです。毎年半年間夜遅くまでネズミの行動を観察して推測していったのは、紛れもなく私だったのですね。
 30年前に今の大学に赴任したのですが、青年心理学の講義の予習をする中で出会ったのが、 Erikson,E.H. のアイデンティティ概念でした。まったく私にとって目新しいこの心理学用語は驚きでした。この後長い時間をかけながら、人間の言葉で認知レベルの研究を、調査法をもとにしながら研究しました。そして、やっとのこと自分なりのキーワードである「親子の似より感とズレ感」、もう一つ上位の『似よることとズレること』という対概念を立ち上げたのです。
 この間「性格」とか「人格」という用語を私がどのように使ってきたのか振り返ってみましょう。これまでほぼ一貫して発達心理学の分野を担当してきました。“三つ子の魂百まで”を中心とした講義・演習では、情緒の早期分化とそれに関係させながら Freud,S.の考え方である「性格」をよく使いました。学会発表や論文作成では、「性格項目」でした(因子分析の結果、抽出した4因子には「人格認知因子」というかなりアバウトな表現もしていますが)。また、「気質」という用語が、新生児から乳幼児の時期の研究に用いられるようになり、40年の間の心理学分野における急変にはビックリです。あまりに厳密に考えすぎていた昔を思い出しながら、年を取ることのメリット(言い換えれば、厚かましくなる)を満喫しています。そういえば、臨床心理学の分野では、『魂・たましい』ということも言われるようになってきましたね。ファジーな部分を多くして論じ合う方が面白味が増してよいのですが、危険な面もでてきているように感じます。
 さて、人格とかパーソナリティについてですが、これまで一度も用いたことのないのは性格の発達です。発達を付けるときは、必ず人格の発達であり、パーソナリティの発達でした。学習し経験を積み上げながら自分の人生を紡いでいくという面に注目すれば、この使い方がやはり一番的を突いているように受け止め続けています。大学院では、西平直氏の影響で、私・〈私〉・《私》という使い方もするようになり、とうとう自分なりの理論モデルまで構築してしまいました。あれだけ緊張して恥をかいていた学生時代と比べ、なんという豹変ぶりでしょう。ボケも始まっているのでしょうか、懐かしく想い出しながら、この原稿を書いています。
 2002年の今は、Erikson,E.H., Jung,C.G., Maslow,A.H., Frankl,V.E.そしてRogers,C.R.と彼らの生涯と業績を合わせながら学びを続けた結果、とうとう Wilber,K.のトランスパーソナルな世界にまで到達してしまいました。これは、禅の十牛図との必然的な遭遇でもありました。恐れを知らない50歳代終わりの独り言でした。ご一読、感謝です!


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