意見欄   「その人らしさ」や「個性」をさぐる研究

文野 洋(東京都立大学人文学部)

 研究の文脈で用いられる「性格」「人格」「パーソナリティ」ということば(用語)は、研究者がふだん感じている「その人らしさ」や「個性」といったものを出発点として、構成したものだと思う。

 「その人らしさ」や「個性」は、ある人の行動傾向の個人差が、その人の特徴をよく示すものとして取りあげられ、知覚される。だから、これらの用語については、既存概念としての定義の点だけでなく、どのような行動傾向の個人差を、どのように取りあげるのかといった素朴な観点から見ることも、研究にとって有益だろう。

 人のいろいろな行動を、他の人や場面と比べたところに、個人差は見てとれる。あの人は「気さくだ」とか「慌てものだ」とか。しかし、人の行動だったら何でも同じように個人差として取りあげられるだろうか? そうでもない。頭の掻き方やあくびの仕方なんかは、きっとよく見れば人によってまちまちだけど、それが「個性」に結びつく人はごく一部だ。見ようによっては個人差のばらつき具合が同じような行動傾向でも、注目されたりされなかったりするのは、どうしてだろう?

 なぜその行動の個人差に注目するのか/しないのか、ということは、やはり「性格」や「パーソナリティ」を考える上で興味深い。これは、社会的文脈、すなわち行動を評価する人と評価される人との関係やその場の状況でずいぶん変わってくる。

 たとえば、小学校の先生はある子どもの「個性」のひとつとして、授業でいつも手をあげて発言する「積極性」をあげるかもしれない。一方で、この子が日曜日に通っているサッカーチームのコーチは、戦術の説明を子どもたちにするときに、この子がよく質問することは知っていても、プレーには自分からゴールをねらう「積極性がない」ことを「個性」と感じているかもしれない。行動が評価される文脈によって、注目する行動(発言すること/シュートをうつこと)は異なっている。

 また、この例では、おなじ子どもに「積極性がある/ない」という評価が与えられている。社会的文脈が抜け落ちた評価(「積極性」)だけを見ると、質の異なる個人差が混同され、「その人らしさ」や「個性」がつかみにくくなる、という問題もありそうだ。

 注目される個人差は、時代や生活地域によっても違ってくる。研究者であってもそうでなくても、現在よく取りあげられている個人差は、これまではどう扱われていたのか。調べていくと、「性格」や「パーソナリティ」と呼びながら、私たちが前提にしている「個人差の枠組み」が浮き彫りになる。またそこに大きな文化差がみられるとすれば、Personalityなど既存の概念と「性格」「人格」「パーソナリティ」との違いもますます明確になるだろう。

 ということで、「性格」や「パーソナリティ」という概念に関わる研究においては、何らかの行動傾向が個人差として成立する社会的−歴史的文脈にも、もっと注意が向けられていい。

 既存の研究には、所与の個人差に関するものが圧倒的に多い。他には、取りあげる個人差の種類や次元を決める、全般的な対人認知構造に関する研究もある。しかしこの場合、先ほどの評価する人/される人との関係などは捨象されてしまう。目の前にいる(いない)「この人(あの人)」の行動が、他でもない「この人らしく(あの人らしく)」思える現象については、具体的な状況や人間関係に焦点をあてることで、うまく記述することができるだろう。

 ここで問題にしたような「その人らしさ」や「個性」を扱う研究は、他の研究に比べたらかなり少ない。先人の研究のアイデアや方法を引き継げなかったということも一因だろう。研究方法を確立していくためには、課題の多いものでもいいから、さまざまなアプローチの研究が必要となるだろう。それぞれの長所を生かしながら、少しずつ洗練させていけばいいと思う。得られる知見は、概念定義の問題や、既存の他の研究にも少なからず貢献するはずだ。


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