Japan Society of Personality Psychology

書評『意識としての自己−−自己意識研究序説』

書評執筆者:溝上慎一

『意識としての自己−−自己意識研究序説』

(梶田叡一著,金子書房刊,価格2,400円,1998年11月刊)
書評の文責は書評執筆者となります

《自己研究の出発点》


溝上慎一(京都大学高等教育教授システム開発センター)

 自己の研究ばかりをやっていると,人というのは自己を問題にせざるを得ない生き物なのだ,とどうしても思うようになってしまう。ある日新聞記者からインタビューを受けて,自分のことをそんなに考えないといけないんですか?と率直に尋ねられたことがある。私は,自己という問題がどういう文脈で問題になってくるのかということを一生懸命語ったが,相手はほとんど納得のいったような顔をしなかった。挙げ句の果てに,そんな顔を見ながら私も「どうして私は自己の研究をやっているのだろう」,そんな気持ちになる始末である。

 私は,この『意識としての自己』を読みすすめながら,ふっとこのような出来事を思い出した。梶田叡一氏の自己意識へのあくなき探求には,ずいぶん年月を要している。おそらく自己研究者で持っていない者はいないであろう『自己意識の心理学』(東京大学出版会)は,氏の博士論文をベースとしたものだと聞いているが,とすれば氏は,実に学生時代から一貫してこのテーマに取り組んでいるわけである。教育実践やその他様々な場で,自己というものが問題になる所在を,長年説得力をもって語ってきた,梶田氏の経験とまなざしの深さが『意識としての自己』にはにじみでている。「なぜ自己を問題にせざるを得ないのか,それのわからない者がどうして自己の研究をやっていくことができようか」,氏の迫力ある叫び声が読みながら聞こえてくる。と同時に,自分はまだまだその域に達していない未熟さを思い知る。

 ある学生が,偶然この本を読んだらしく,私に「梶田先生のような有名な先生でも,悩み苦しみながら取り組んでるんですね」と感想を言ってきた。梶田氏は,説得力のある言葉とは裏腹に,いつも答えを出さずに自己の現象を深くみつめている。時代のはやりにあっち行きこっち行きと流される者が多い中,氏の自己への関心は一貫して同じである。それは,人が生きる中で自己が問題になるとはどういうことか,ということ。

 本書は,この問いに対して,大きく5章と補章の構成でまとめられたものである。すなわち,

「第1章:<私>とは何か」
「第2章:<公理系>としての<私>」
「第3章:社会的主体としての<私>」
「第4章:固有の世界としての<私>」
「第5章:<私の世界>と<私たちの世界>と」, そして
「補章:アイデンティティの形成と探究をめぐって」

である。基本的には,氏がこれまで述べてきたことを体系的にまとめたものであるが,自己意識とアイデンティティとの関わりについては,とりわけ力を入れて論じているように思われる。自己規定やラベリングを通しての存在の確認,そこにまつわる他者のまなざしや他者を通して感じる位置づけ,他者への宣言の問題などは,自己やアイデンティティの問題を考えていくにあたって教えられることが多い。単に「私とは何者か」というにとどまらない,リアリティな問題がそこでは扱われている。

 最後に,私の専門的な関心から勝手なことを言えば,本書で扱われる「私」と「自己」の概念の違いについてもっと積極的に述べて頂きたかったように思う。関心が違うと言われればそれまでであるが,機会があれば氏の考えを是非拝読したいところである。

書評者:溝上慎一
1999年3月7日受理
   


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