(阿部 修士 (著) 2021年,岩波書店)
目次
はじめに
第1章 人も動物もウソをつく
第2章 ウソは見抜けるか?
第3章 どういう場合にウソをつくのか?
第4章 どういう人がウソをつくのか?
第5章 ウソをつくとき脳で何がおきているのか?
第6章 性善説と性悪説、どちらに軍配が上がるのか?
おわりに――ウソと正直さの科学はどこへ向かうか
本書のタイトルは「あの人はこうしてウソをつく」でもなく「私はこうしてウソをつく」でもなく,「あなたはこうしてウソをつく」である。「ウソ」というと一見,悪いイメージがつきまとうが,思い返してみれば忙しい状況で仕事を引き受けて「大丈夫?」と言われたときに本当は大変だけれども「全然大丈夫です!」というのもウソと言えばウソである。このように「ウソ」は日常にありふれており,私も「あなた」も日常的にウソをついているはずである。果たして,私たちの本性は「ウソつき」なのか,それとも「正直者」なのだろうか。このような古くからある「性悪説」と「性善説」の対立に科学的な知見から鋭く切り込んでいるのが本書である。
ウソをつくのはヒトに固有の特徴なのだろうか?もし,本当にそうなのであれば,ウソはヒト社会に備わった文化的な現象なのかもしれない。しかし,本書の第1章「人も動物もウソをつく」では,類人猿や鳥類もウソをつくことを示した研究が網羅的に紹介されている。ウソは一見すると高度な認知処理を必要とする言語上の現象であると思われるかもしれないが,そのような「ウソ」観がやや狭いものであることを指摘しつつ,多種多様な動物のウソが描き出されている。ウソは,ヒトに固有の言語的な社会文化的現象というよりはむしろ,さまざまな動物に備わっている「本性」と呼べるような,頭の中にある神経科学的な基盤を背景とした普遍的な現象なのかもしれない。
ウソが頭の中だけの話なのだとすれば,もしかすると将来,頭の中を調べてウソを100%検知するような嘘発見器が開発されるのかもしれない。本書の第2章「ウソは見抜けるか?」では,素朴理論的なウソの見抜き方に対しての過信を注意しつつ,生理反応や脳波,fMRIによる嘘検出器の可能性が論じられている。ただし,各種の生理的・神経科学的検査をもってしても,現在の科学技術では確実にウソを見抜くことは難しいようである。すると,ウソは単に頭の中だけの話ではないのかもしれない。本書ではその実験結果や,生理的指標による嘘検出の難しさが詳細に述べられており,ウソの生理的反応を研究する面白さや難しさを知る上で初学者・研究者にとっては必読の内容である。
ウソが頭の中だけで生じる現象ではなく,状況との兼ね合いによって決まるのだとすれば,どのような状況でヒトはウソをつくのだろうか。本書の第3章「どういう場合にウソをつくのか?」では,ウソが状況特異的な性質をもつ現象であることを論じつつ,「自己イメージを損なわない範囲でウソをつく」や「疲れるとウソが増える」,「ウソが増える時間帯」などなど,状況とウソとの関係性を論じる興味深い節が次々に登場する。ここで述べられている内容は単に好奇心を喚起するだけでなく,実験の内容が慎重かつ詳細に述べられており,ウソと状況との関係を描き出した先人たちの鮮やかな実験を数多く知ることができる点も見逃せないところである。
私たちはウソを日常的につくと言っても,全員が同じ状況で,また,同じくらいの頻度でウソをつくわけではないだろう。そこには大きな個人差が存在するように思われる。本書の第4章「どういう人がウソをつくのか?」では,ウソにまつわる個人差が紹介されている。「ウソの個人差」と聞くと,初学者でもさまざまな問いが頭に浮かぶ。「男女差はあるのか?」,「銀行員はウソをつきやすい?」,「知能が高いとウソをつきやすい?」などなど。このような一般的にも気になる問いに関わる研究が,本章では紹介されている。ウソは状況特異的な性質を持つ現象ではあるものの,そこには一定の個人差があることを,本章では思い起こさせてくれる。
ウソは状況特異的であり,かつ,個人差がある現象であるという知見を踏まえれば,その背景には複雑なメカニズムが存在することが示唆される。本書の第5章「ウソをつくとき脳で何が起きているのか?」では,ウソの背景にある脳内メカニズムが論じられている。この章は私たちヒトの「本性」に関わる章であり,現在科学技術の発展とともに明らかにされつつあるウソの脳内メカニズムを示した知見が紹介されている。この章では筆者の実験も豊富に紹介され,ウソの脳内メカニズムを調べる実験の難しさや背景が生々しく記述されている。本章を読めば,ウソの背景にある脳内メカニズムが驚くほど明らかにされていることがわかる一方で,その限界点があることもわかるだろう。
ウソは,状況に随伴する複雑な脳内メカニズムを経て表出される現象である。ここまでの章で概観されてきたこのような命題を前にしたとき,冒頭で述べた「私たちの本性はウソつきなのか,正直者なのか」という問いにはどのように答えればよいのだろうか。筆者は最後の章「性善説と性悪説,どちらに軍配が上がるのか?」において,筆者自身の神経科学的な知見に基づき,ある主張を述べている。その主張の内容は読者が本書を読んだときのお楽しみとして伏せておくが,古くは紀元前までさかのぼれるこの疑問が後世にわたり,現代の神経科学によって答えられる様は感慨深いものがある。筆者も注意深く論じているようにこの主張はあくまでもひとつの説ではあるが,神経科学的なウソ研究の今後の発展においてメルクマークとなる重要な主張として位置づけられるのかもしれない。
図書紹介の執筆にあたり,(株)岩波書店のご協力を賜りました。ここに厚く御礼申し上げます。
(文責:下司忠大)
(2021/5/1)