研究のきっかけ
私がこれまでに行ってきた研究の中心には,「不適切な被養育経験」が存在します。不適切な被養育経験とは,子ども時代に養育者から受けた虐待やネグレクトなどの経験を指します。このような研究を始めたきっかけは,卒業論文のテーマを探していた時に指導教員から,不適切な被養育経験を用いた研究を提案されたことでした。当時の私は,臨床心理士の資格を取得するために,大学院への進学を志望しておりましたが,研究に対して強い関心があったわけではなく,研究テーマにもこだわりがありませんでした。そのため,私は指導教員から提案された研究テーマに,あまり深く吟味せずに取り組むことに決めました。
きっかけは指導教員からの提案でしたが,その後は少しずつ不適切な被養育経験に対する関心を高め,それについて研究を行うことに意義を感じるようになりました。卒業論文に取り組む前の私は,虐待やネグレクトといった不適切な養育のことを,一般人の生活からは隔絶された,遠い世界の話であると考えておりました。ですが,質問票調査を行ってみると,程度に違いはあれど,そのような経験があったと回答する大学生が想像よりもはるかに多く存在しており,衝撃を受けたのを覚えております。また,大学院進学後は,幸運にも臨床現場の第一線で活躍されている方々のトラウマケアについて学ぶ機会を多くいただきました。虐待やネグレクトといった子ども時代のトラウマは成人後の精神症状や問題につながっている可能性があること,そのようなトラウマに介入することで,クライエントの主訴の解決に貢献できることを知り,トラウマケアができる心理臨床家に憧れを抱くようになりました。これらの学びや憧れが後押しとなり,卒業論文以降も継続的に不適切な被養育経験に関する研究を行ってきました。
現在の研究内容
現在は,不適切な被養育経験を研究テーマの中心に据えつつも,養育者の離婚や家族のアルコール依存,家族の刑務所への収監などといった子ども時代の多様な逆境(いわゆる,小児期逆境体験)にも視野を広げた研究を行っております。不適切な被養育経験も子ども時代の逆境に含まれますが,逆境を1種類だけ経験した人々よりも,多様な逆境を経験した人々の方が,精神疾患や身体疾患に罹りやすく,寿命が短いという知見も報告されているためです。これまでの私の研究でも,子ども時代に多様な逆境を経験した人々は,慢性疲労症候群や過敏性腸症候群などといった「機能性身体症候群」,身体症状症や病気不安症などといった「身体症状症およびその関連症候群」の罹患経験を持つ確率が高いことが分かっております。また,児童養護施設を退所した人々を対象とした調査も行っており,そのような人々が抱える抑うつ症状の背景には,子ども時代に経験した複数の逆境が関与していることが確認されました。
今後の研究について
これまで私が扱ってきた不適切な被養育経験は,成人の研究協力者に子どもの頃のことを振り返ってもらう「回顧法」で測定されたものでした。このような測定方法は,多くの研究で用いられております。ですが,成人に子どもの頃のことを尋ねるということは,人によっては,何十年も前の体験について思い出し,回答するよう求めることになります。そのため,不適切な被養育経験の詳細を忘れていたり,記憶が歪んでいたりする人がいる可能性も否定できません。一方で,精神疾患への罹患と関連するのは,不適切な被養育経験に関する「客観的事実」ではなく,「主観的現実」であることを示す研究もあります。つまり,回顧法で測定された不適切な被養育経験は,そのような経験に関する「客観的事実」ではなく,「主観的現実」を反映している可能性はありますが,精神的健康にとっては,「客観的事実」以上に重要なのかもしれません。今後は,回顧的に測定された不適切な被養育経験の個人内変動に影響を及ぼす要因や,回顧的に測定された不適切な被養育経験が精神的健康を害するメカニズムを明らかにしていきたいと考えております。
最後に
この度は,このような貴重な機会をいただき,大変光栄に思います。パーソナリティ心理学会の関係者の皆様に,心よりお礼申し上げます。