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情動学シリーズ1 情動の進化 ―動物から人間へ―

(渡辺 茂・菊水健史 (編),2015,朝倉書店)

目次

1.快楽と恐怖の起源(廣中直行)
2.情動認知の進化(岡ノ谷一夫)
3.情動と社会行動(菊水健史)
4.共感の進化(渡辺 茂)
5.情動脳の進化(篠塚一貴・清水 透)

 

 情動学シリーズの第1巻である本書は,情動というヒトの心の働きの進化にまつわるものであった。古代ギリシアの時代より,私たちヒトの情動というものは,まさに認知・理性というものによってコントロールされるべきものと考えられてきた。情動と認知は対立的なものとみなされ,ヒトが人であるために知をもって情動を抑え,理性的にふるまうことが求められていた。そしてそれは現代の教育場面においても暗黙裡に信じられ,教育の目標とされているといえる。しかし,ダーウィンの進化論をきっかけにして,情動のもつ適応的機能に注目が集まっている。情動は非合理的なものではなく,むしろ個体が環境に対して適応する上で非常に機能的なものであり,進化を促す原動力となったといえる。このような情動に対する見方の変遷が生じている中で,情動がいかに進化してきたのかを論じる本書は,私たちに貴重な示唆を与えてくれるといえる。
 本書の第1章では,以上のような問題提起のもと,「快」と「不快」という2つの極めて基本的な情動の起源について,豊富な先行研究をもとに考察がなされていた。ここで「快」は,「報酬探索にともなって生じる情動」と定義され,「不快」については特に「恐怖」について焦点をあてた考察がされていた。「快」の情動に関しては,ドーパミンやエンドルフィン類の機能について言及がなされた。一方「不快」の情動に関しては,ノルアドレナリンやストレス関連のホルモンの働きが概観されていた。第1章の中にも書かれているが,これらの代表的な神経伝達物質やホルモンは,あくまでもより大きな働きをしているものを取り上げただけで,かなり単純化されたものであることには自覚的であるべきである。ただ,哺乳類を通じた進化という視点で見た時,「快」・「不快」という情動の基本的な生起メカニズムが保存されていることが重要な点である。
 続く第2章は,他者の表出する情動を知覚し,自己の行動を調整するプロセスである,情動認知の進化について考察がなされた章であった。情動認知を,情動の表出のフェーズ,その表出された情動を他個体が知覚するフェーズ,そしてその知覚された情動をもとに行動を変容するフェーズという3段階に分け,それぞれにおいてヒトと他の生物種における知見が簡潔に整理されていた。そして章の最後には,情動認知のメカニズムの進化に関する複数の仮説について言及がされていた。情動認知の進化を論じる際の問題は,表出される情動をヒトとヒト以外の生物種において連続的に扱うことが難しいことにあるという。この問題を解決することができなければ,情動認知のメカニズムの進化について,ヒトとヒト以外の動物の間で統一的な観点から議論をすることができない。本章でも述べられているように,新たなパラダイムが必要とされているのだろう。
 第3章では,ヒトをはじめとする動物の養育行動や絆の形成・維持,配偶行動や攻撃行動などの種々の社会的行動と,その背景にある情動の機能について述べられていた。ヒトをはじめとする哺乳類は,他の動物と比して子孫に対する養育行動が数多く見られ,親子の絆の形成・維持という点においても大きな役割を果たす。ここで重要となるのはオキシトシンであり,本章ではラットとヒトにおける知見が丁寧に記述されていた。また配偶行動は,子孫を増やし,新たな世代を生むという点で重要な行動である。本章では,オス型の性行動とメス型の性行動におけるホルモンの作用機構が,ラットやヒトにおいていかに共通しているのかが述べられていた。攻撃行動については,特に自分の縄張りを守る行動について考察がされていた。縄張り行動は,自身の生存のための食物の確保,さらには配偶戦略においても重要な意味を持つ。これらの社会的行動は総じてホルモンによってコントロールされていて,その基本的なメカニズムが哺乳類の種間で保存されていることが,社会的行動とそれに関連する情動の進化を論じる上で重要なことになるのだろう。
 第4章は,共感という機能とその進化について論じていた。共感といっても,相手の情動のvalence (ポジティブかネガティブか),及びその情動に付随して生じる自身の情動のvalence (ポジティブかネガティブか) の組み合わせによって4種類の共感が定義されるという。相手と自分の情動が共にポジティブな場合は「正の共感」,共にネガティブな場合は「負の共感」,相手がポジティブで自身がネガティブな場合は「逆共感」,相手がネガティブで自身がポジティブな場合は「シャーデンフロイデ」ということになる。「正の共感」と「負の共感」については種を超えてその働きが保存されているが,「逆共感」や「シャーデンフロイデ」ということになると,より限定的な現象ということになるようである。これら共感という心の働きは,言うまでもなく個体や仲間の生存にとって適応的であり,進化の過程で獲得・保存されてきたといえるだろう。
 最後の第5章は,情動脳と筆者が呼ぶ,情動の処理に関わる脳部位・神経基盤の進化について議論がなされていた。情動というものが,ヒトをはじめとする生物において重要な機能を果たしてきたことは,これまでの章において繰り返し述べられてきた。これらの情動の働きの神経基盤はヒト以外の哺乳類,さらには哺乳類以外の脊椎動物においても基本的に共有されている。このことは,情動が多くの生物の生存において重要であることを示唆しているという。ただしその一方で,ヒトの情動脳とその他の動物の情動脳において,その構造やメカニズムは多少なり異なっている。筆者によれば,そのヒトならではの情動にまつわる機能とは,情動の自己認知能力である。私たちが自身の情動を自分で意識することが出来るのは,まさにヒトにおいて大きく発達している大脳皮質の働きによる。この情動の自己認知能力は,理性ではない情動そのものに潜む機能をうまく活用することにおいて,非常に重要な働きをしているのかもしれない。
 このように,本書では情動という適応的な心のメカニズムが,進化のプロセスでいかに獲得され,さらにそれが維持されてきたのか,ヒトを含む多くの生物種における豊富な知見をもとに考察されていた。その記述は各章ともに分かりやすく整頓されたもので,個々の研究領域の先行研究を概観する上で非常に役に立つものといえる。内容のレベルは,(本書では高校生からと書かれているが)専門課程の大学生・大学院生以上に適したものといえ,読みごたえのあるものであった。(文責:川本哲也)

・本書評の執筆にあたり,(株)朝倉書店のご協力を賜りました。ここに厚く御礼申し上げます。

(2016/8/16)